--/--/--/(--)
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2002/10/27/(Sun)
Nowhere Man の Bass
ブライアンウィルソンがロック音楽では初めて
コードの動きやルートという考え方を替えて規制をなくし
Bassフレーズとか自由にしたわけで、その結果
ポールマッカートニーが素晴らしいBassフレーズを
弾くようになり、ロック音楽が進化したと言われてるけども
単なるBassフレーズとしては、いろんなフレーズを
既にポールは弾いているのよね、意識はしてないと思うんだけど。
コードが決まっててもいろいろ出来るっていうのは知っていたような気がする。
ブライアンはピアノで作曲したから一人で弾くわけだが
ビートルズの場合はバンドだから、
ギターのコードとBassフレーズは別な人が担当するよね。
ギターのコード譜だけだと簡単になってしまうけど
Bassフレーズも合わせると結構なテンションになると思う。
更にメロディやハモリも合わせると、なかなか複雑になってくる。
ラバーソウルくらいだと、もう既に複雑なフレーズになっていて
たとえばNowhere Manはギターだけでは、ただのスリーコードだけど
Bassは尋常じゃない動きになっている。
ミッシェルのイントロも有名よね。これは5度入り。

Bassをルートに置かないのはブライアンの得意の手法だけれども
これは実際は、別なコードでも代用出来たりする。
でも上と下でコードを替えた方が気持ちいいというか、
独特の響きになって良いんだよね。ロックコンボって感じがするわけだ。

先日ふとした切っ掛けで
ポルナレフの89年の曲「グッバイマリルー」をコピーしたんだけども
始めは-5とかDimとか結構入り組んでるなと思ったんだけど
その後練り直したら殆どそのルート違いでも出来ることが判ったんだ。
どっちを使うかは好みだけど、そもそも外国のアーティストは
「コード」という概念が、あんまり無いように思う。
俺の場合フィルスペクター的なんで
ひとつのコードを一個一個ちゃんと鳴らすのが好きなんだけども
彼らの場合は、どうでもいいように思っているフシがある。
流れとか動きが大切なんだよね。対位法というか。
だからコードというのも流れる中の一瞬の中のひとつに過ぎない。
凄い贅沢よね。ちょっと羨ましい。

でもジョージハリスンの曲みたいに
Dimコードをしっかり4回刻む、なんてなのも、
これまた良いもんなんだよな。ロックだぜ。
スポンサーサイト
2002/10/08/(Tue)
ジョンレノン射殺事件
先日書いたものを補足しておく。
その一報を知った時それほどショックを受けなかった。
これは以前書いたとおり。
むしろショックを受けなかった自分に対してショックを受けた。
友人などの手前、一生懸命ショックな気分になろうとしたけど
ダメだったね。
周りの人やマスコミ有名人が一様に塞ぎ込んでる様子を見て
かなり驚いた。
はぁ?お前がファンだったなんて聞いたことないぞー?って感じ。

その瞬間は、それほどでもなかったが
時間が経つにつれ、徐々にジョンレノン不在の弊害が出始める。
ジョンレノンという人は、好き嫌いに限らず
望む望まないに関わらずロック界にとって大人物であり
その彼が居なくなったことによって重石がなくなってしまったのだ。
結果、いろんな人が好き勝手な事をし始めた。
これはポールやオノヨーコも含む。
もう誰にも気を使う必要がなくなったというわけだ。
そんなわけだから80年代のロック界は皆が知ってるとおりの体たらく。

事件当初は、それほど気にも留めなかった僕も
意外な部分で影響が出たことには、正直驚いた。
「これはヒドイなぁ…」とマジで思った。
その頃から洋楽ロックに対して冷めてきたんだろうな。
信用でけへん、と。
フィルコリみたいな物の方が
僕にとっては、はるかにリアルだったな。
そうして僕の向かう方向も変わっていったのだ。
2002/10/03/(Thu)
打楽器奏者 2
これに関しては興味深い経験をしたので書いておく。

東京に来た後、打楽器専攻で
音大(のようなもの~笑)に進むことになって
そこの教授をやっていた、有名なT先生のレッスンを受けた。
課題曲が出されていたので一応ざっとさらっておいた。
レッスン室に着いてT先生の前で、その曲を披露。
自分では、なかなか良い感じにプレイできたという感覚があったが
演奏が終ると想像に反して、いきなり先生は激高。

…と、まぁ、ここまではありがちな展開だが
先生はなんと、こう言ったのだ。
「なんだ?それはっ!?そんなチマチマ演奏するなっ!4畳半じゃねぇんだ!」
あまりの台詞に僕が呆然としていると
「もう終りだ。帰れ!終わり。出ていけ。」と畳み掛けられた。
なんだか判らないけど、取り敢えず
「すいませんでした」と謝ってレッスン部屋を出てきた。

これを教訓に、受験本番では、今だかつてないくらいの大音量で演奏。
無事合格できた。もちろん試験官は、その教授だ。
その後、その教授とは反りが合わなくなってしまい
最終的には弟子(?)の座を下りてしまうことになったけど
一番始めに怒鳴られた時の、その趣旨だけは今でも納得できる。

まぁ、そういうことだ。
これで昨日の話が少し判りやすくなったんじゃないかな。
2002/10/02/(Wed)
打楽器奏者
昔はクラッシックやそれに順ずる音楽で
打楽器奏者(ティンパニとかスネアドラムとか)もやっていた。
始めのうちは楽しくやっていたんだけど
活動がドラマー中心にシフトするようになってから
だんだんタイム感が変化してきてやりにくくなってしまった。

クラッシック音楽というのはホールでの生演奏を基本に考えられていて
それに適したタイム感や感覚が必要になってくる。
Drumsのようにマッタリ演奏していたのでは観客に音楽が伝わりにくいのだ。
打楽器というパートの特異性もあるだろうね。
オーケストラにとって打楽器が必要な場面というのは限られていて
その用途や必然性が僕にとって理解できないものになってきたんだな。
クラッシック音楽を永遠に続けるつもりもなかったし
ここで、どちらかを選択しなければ中途半端になってしまうと思ったのだ。

指揮者は絶対的なもので、当然ながら演奏者に様々な要求を出す。
逆らうことは、基本的には「許されてない」といっても良いだろうね。
だから、要求に応えられないならば身を退くしかない、というのが結論だ。
僕の場合も要求されるタイム感に応えることが出来なかったので
結局辞めることになった(応える気もなかった)。
本意ではない演奏するをのはリスナーに対しても失礼だからね。

クラッシックを好む人は大人しい人が多いというイメージがあるが
実際はそうでもなく、激しい気性の人がたくさん居る。
クラッシック音楽自体、実にダイナミックなもので
世間一般の「癒し系」というイメージは、ちょっと違うと思うね。
だから演奏する側もはっきりと信念を持ってやらなければならない。
かなり特異なジャンルなんだよ。
「音楽だから全て同じ」というのは
有名な指揮者とか作曲家が言うのは判るが
普通の人がそれを言うのは、ただの似非平等主義。
ちゃんと違うものである、と理解した上でやらないと躓くと思う。

まぁ僕も躓いたわけだ(笑)。世間知らずでしたな。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。